活動報告は順次更新いたします

今までの活動は、Facebookのイベントページをご確認ください。 
https://www.facebook.com/NPOecolabo/events/admin

マイボトルでGO!アクションウオーク

(兼六園周辺の水脈と用水) 

ガイド   まいどさん   武野 一雄 氏

日時:2022年10月23日(日)9:00~11:30 集合:8:45 石川県立歴史博物館前

 

コース:

石川県立歴史博物館(辰巳用水石管)前→金城霊澤→金沢神社→梅林口(利常公の井戸)→氷室→曲水沿い→板橋→

徽軫灯篭前→黄門橋→噴水→瓢池→真弓坂→21世紀美術館緑地

 

辰巳用水の石管

辰巳用水の石管を利用したモニュメントです。当初木樋(木管)でしたが、江戸後期以降に一部が石管に取り替えられています。 


 

辰巳用水の概要:

所在地:金沢市上辰巳町壱字112番3ほか 国指定史跡:平成22年2月22日指定 指定面積 147,218.81平米(指定延長約8.7キロメートル)日本三大用水:辰巳用水(1632)は、箱根用水(1653)、 玉川上水(1670)とならぶ日本三大用水のひとつで犀川上流の取水口から 引かれた用水は、近郊の田畑を潤しながら市内を流れ、兼六園・金沢城までの 総延長約11kmに及んでいます。(赤穂用水を入れて四大用水とも)

 

金城霊澤と金沢神社棟札

金沢神社の昭和50年(1975)12月、金澤神社の棟札が郷土史家北村魚泡洞氏により発見されます。この棟札によれば、前田家11代治脩公は金城霊澤(金洗澤)の鎮護のため、天満宮と稲荷神、命婦神の社を造営するよう厳命し、寛政5年(1793)に神職に相談し場所を決め、学校の鎮守と限定せず、学校の敷地内にあった金洗澤(金城霊澤)の鎮守としたのであろう。金洗澤は金澤の地名起源に関わる霊地であるので、「金澤」あるいは「加賀藩」そのものの鎮守としての意味が込められていたのだろうと、「兼六園を読み解く」の著者長山直治氏がお書きになっています。

 


金澤神社手水舎の水質

金城霊澤金澤神社手水舎水質は、小立野の河岸段丘及び旧扇状地堆積層からわき出た水で水脈は同じものです。この水は、明治11年(1878)医学校教師オランダ人ホルトマン氏の分析によると、ほとんど混合物がなく、水にチオシアン酸カリュウムを加えると少しばかり血赤色を呈するほどの少量の鉄分が含まれているという。血の成分は鉄分で薬効があるということです。(「兼六園全史」より)

 


 

昭和58年(1983)6月から昭和61年(1986)12月にかけて採水し、PH6,70、水温14,0度で、6月と12月では大きな変動は見られなかったとあり、このわき水の成分パターンは、やや鉄とマンガンの成分が多くカルシュウム、カリュウムなどのミネラル成分を適度に含み、鉄分が少し多いが、良質の甘水で、まろやかな味のするおいしい水です。

 


 

また、蛍光エックス線分析法により分析でも、カルシウム・鉄分を多く含み、日本百名水として知られる富山県上市町の「穴の谷の霊水」と似かよった成分パターンを示しおり、また、毎年飲用に適しているかどうかの「水質試験」を行っております。

 


(水質は、兼六園のお茶の井と同系で、お茶の井は三代藩主利常公以来、城中のお茶の湯に用いられていたという。)

 

辰巳用水の取入れ口(沈砂池)

山崎山の裏にある蒼く澄んだ池が沈砂池です。こんこんと湧いているようにみえますが、湧き水ではありません。辰巳用水から流れてきた水が、沈砂池に溜められ、山崎山の下を通って園内へ流れ出ています。山崎山の下にある穴。曲水の始まりです。

 

氷室跡

山崎山の下にある池は、氷室があったと言い伝えられていますが、この池が氷室に利用されたのは、明治以後のことであり、藩政期は、東外惣構の起点として辰巳用水から引いた水を、現在の兼々御亭跡辺りにあった霞ヶ滝から落下させ、源太郎川に合流し浅野川左岸の並木町から浅野川へ注いでいました。

 


 

兼六園の井戸

「兼六園全史」の兼六園と作庭記の項には、現在園内の井戸が10箇所ある(内湧水2ヶ所也)、竹澤御殿絵図面(魚泡洞版)を見るに井戸の数が極めて多い。また、若水のかけひ(筧)も限りない。と書かれています。一般的には藩政初期の辰巳用水の完成により、金沢城の空堀は水濠になり、防衛上にも多大な役割を果たし、同時に城内の飲料水の供給という大きな役目も担った?と伝えられていますが、どうも、藩政期を通して、金沢城や竹澤御殿の飲料水は井戸だったようです。

(石川県金沢城調査研究所所長の木越隆三氏の「辰巳用水誕生の新説」によると、江戸時代の文献には、辰己用水が飲料水に使われたと云う記録がなく、飲料水は井戸であったとある。(平成21年(2009)1月22日北国新聞投稿)

 

特に成巽閣裏門西南の井戸は良井であったので、成巽閣ではこの水脈を辿って掘ったところ、これもまた良井であるとのことであると書かれています。

 

兼六園の井戸で有名なのは、千歳台に井戸の中から桜が顔を出している桜があります。兼六園にある400本の桜の中で、風変わりで異端とも言われていますが、井戸はかなり深い本物の井戸で、「小糸の桜」という伝説の桜と井戸です。

 

「昔々、小糸という美貌の女中がいて、お殿様から寵愛を受けますが、小糸は従わずお手打ちにされ、井戸に投げ込まれたという、彼女は恨みを込めて桜になったというお話です。何時の頃から云われたかは不明ですが、これに似た話には、あの有名な「番丁皿屋敷」など、恨みが亡霊となり、夜な夜な鬼になり出るという凄みある伝説が全国各地に多くありますが、兼六園では、美しい桜に生まれ変わり人々に愛される優雅な話になっています。」

 

辰巳用水について

≪目的≫

利常公の本心は、「金沢城内の飲料水の確保?」「内外の堀に水を満たす」 ことにより城の防備を固め、また、用水を利用した積極的な新田開発といった目的もあったのでしょう。

(参考:寛永12年(1635)河原町後ろから出火、浅野川あたりまで1万軒が焼失。)

板屋兵四郎について

「三壷聞書」には、「…小松町人板屋兵四郎という…」と書かれていて、大阪芝敷村から小松に来たとされているが、当時は公事場奉行・ 算用場奉行などをしていた稲葉左近直富の配下で下村姓を称する士分で、能登にあって塩田関係の小代官を勤め、その間、寛永7年(1630)には輪島の近くの尾山・春日の灌漑用水を開削しており、白米の千枚田の灌漑も板屋兵四郎の手によるものと伝えられています。

 

工事責任者に就任した板屋兵四郎は、数学に才能を発揮し、さっそく用水に求められる水量から用水路の規模、 勾配を計算し、現地測量を行なって水路を決め工事に着手します。

①水路が雪や落石で 埋もれないように全長4kmに及ぶ暗渠を掘り進む。

②小立野台地の上を兼六園まで引いてきた水が百間堀を越えて金沢城内まで揚水する。

この2点が 辰巳用水工事の最大のテーマでした。

 

特に取水口下流の盲目(めくら)谷の暗渠工事では大規模な落盤事故で多くの犠牲者を出すなど、大変な苦労をしたと伝えられています。工事には、宝達金山で勤務していた鉱夫(黒鍬衆)や 近郊の農夫たちが従事しました。ひたむきな情熱で彼らとともに労苦をともにした兵四郎と、彼の姿に感動した人々の献身的な働きによって、この難工事もわずか1年 足らずで完成に至ったのです。工事は昼夜休みなしの2交替で1人2食の食事を賄いさせました。以来「加賀の四度食」突貫工事の代名詞にもなりました。

 

板屋兵四郎は、豊かな才能と経験から起用されたものであろうが異例の抜擢は、緊迫した藩の命運を賭けた大土木工事の総責任者に任じられ、1年に満たない工期で辰巳用水を完成させます。今日から考えても極めて高い測量技術、土木技術が 駆使されました。

1、軟弱地盤を避けながら複雑に掘り進められた4kmに及ぶ 暗渠(あんきょ)。

2、必要な水量や流速を得るために細やかな計算・工夫が 随所に施された水路構造。

3、水位差を利用して水を高い地点まで 引き上げる「伏越(ふせこし)の理」(逆サイフォン)を取り入れる。当時の日本では画期的な工事であったと言えるでしょう。

 

何と言っても、390年もの年月が経過した現在でも利用されている現役の水路 ということがその技術水準の高さを証明しています。この高度な土木工事は、板屋兵四郎という天才的な技術者よってなされたのです。

「兵四郎暗殺説」の真偽

こうして一大事業を成功に導いた兵四郎ですが、用水完成後、工事の機密漏洩を 危惧した藩によって暗殺されたと伝えられていますが、その後20年生きて富山県の用水工事の指揮もとった・・・ など諸説があり、その晩年は謎に包まれています。兵四郎の上司で、用水の建設資金調達の 責任者であった稲葉左近は、寛永17年(1640)利常公、隠居の翌年に切腹し果てました。罪科は表面的には汚職とされています。 稲葉は資金調達のために幕府に無断で大坂への米の輸送路を改修し利益を出し建設資金に 当てたのですが、前田藩は幕府への配慮から政治的に彼を処理したのだとも言われています。

稲葉左近の切腹とダブらせて兵四郎の暗殺が語り継がれているもの思われます。聞くところによると、後の富山の用水開削の記録に兵四郎の名前が記載されているとか。)

 

辰巳用水の工事費と従業員数

労働人員

寛永9年(1633)の工事期間 9ヶ月 

隧道に関わった人数 88,224人 開蕖に関わった人員 51,396人 合計約14万人

隧道(1日1間あたり30人永楽銭540文)開蕖(1日1間当たり17人111文)

工事費 合計約2,666両

(水路掘削1,527両 付帯工事849,8両 逆サイホン費160両 工具代129両)

当時1両を30万円とすれば、約8億円に突貫割増しが加わっても10億円以下か・・・?

(参考:金沢21世紀美術館は建設約217億円、運営消費111億円)

 

(人員や費用に関する史料はない。工事費の詳しい費用は試算しか出来ないが、近接した年代に行われた長野の”五郎兵衛用水“”玉川上水“のものから推算したもので、両用水とも民間工事であるのに対し、辰巳用水は藩の直営でしかも緊急工事として行われたことから、相当の割増であることを考えなければならない。)

 


 

兼六園と辰巳用水

兼六園の曲水の水はすべて、辰巳用水を流れてくる犀川の自然の水で、兼六園からおよそ11キロ上流の東岩取水口から取り入れられた水は、平均勾配230分の1という緩勾配の辰巳用水によって、勾配差を利用して高台の兼六園に揚げられているのです。かつては多くの名園で自然の流水がつかわれていたが、栗林公園や後楽園など、現在ではほとんどの公園でポンプによる揚水が行われており、いまなお自然の流れで水を引いている兼六園の価値がいっそう高まってきています。

 

東岩の取水口から兼六園までのおよそ11㎞のうち4㎞あまりは水トンネルで、もっとも緩やかなところの勾配は600分の1、さらに日本ではじめて伏越の理(逆サイフォンの原理)をつかって兼六園から金沢城に水を引いています。

逆サイフォンの原理で金沢城に引かれた辰巳用水の水は、城の防火用水でもあり、内堀を満たす水で、辰巳用水なくして、加賀百万石の前田家はなく、兼六園もなかったのです。)

 

辰巳用水兼六園専用管のついて

経路:末町(犀川浄水場付近)から兼六園入り口まで約6km

断面:内径350mm~450mm

流量計:山崎山の横に着水池があり、そこへ専用管(コンクリート管)によって用水が流れ込んでいます。流れ込む所に水位計が設置され、常時監視していて、兼六園の一角にある管理事務所の隅にテレメータが設置され、流量と水位の表示および記録がなされている。話の後でみせてもらったところ、水深243mm、流量62㍑/秒を表示していた。

流量:最大100㍑/秒、通常は60~80㍑/秒

専用管の断面決定根拠:不明。手がかりとなる数値が記録されている古文書等についてもわからない。

受領図面:専用管の平面図等

 

金沢城と辰巳用水

雉の海抜は91,5m。いまの兼六園・徽軫灯篭前は53,6mである。10km余りもあるの高低差は40mもない。この間の平均勾配は 1000分の3,5 と計算されています。極めて緩やかな勾配であることが特徴。

さらに、取水口からおよそ3・3㎞は水ンネルであること。工期を縮めるために上流と下流から同時に掘り進めた。一つの区間の長さは20 mから長いところで100mもあり、一刻も早く完成させるためで、

その横穴は作業員の入出、土砂の搬出や明り取りにも利用された。トンネルはアーチ型をしており、高さ、幅ともに、およそ1間(180㎝)です。

そして三つ目。「徽軫」前から当時は土橋であった石川橋のなかに木樋(木の管)を埋め込み、海抜50㍍の金沢城・二の丸まで押し上げたことだ。その土橋の中の木樋の海抜は34mであった。(最近出された一部文献には42mとあるが、それは間違いである)。53mから一旦34mのところに落とし、また、50 mまで押し上げたのである。いわゆる逆サイフォンの原理で、当時は「伏越の理」と呼んだとあります。

(これが辰巳用水の特徴は、工期が極めて短期間であったことで6 ヵ月から9ヵ月で完成させたと伝えられていますが、当時の文書が残っていないが、内惣構堀を27日で完成させたとの文書などから、辰巳用水1年未満で完成したとの言い伝えは本当かもしれない。)

 

二回にわたり変わった取水口は、寛政11 年( 1799 ) 5 月26日、金沢城の外堀・百間堀を震源とする大きな地震がおき、マグニチュードにすると6 、震度は6 ~7 だったという。その地震で辰巳用水も大きな被害を蒙った。雉の取水口の壊れ方もひどく水がトンネルに入らなくなったと思われ、その直後に取水口をから130 m上流「古川口」( 娚滝(めおと)対岸)へ移しています。

逆サイフォンの原理:紀元前312年のローマ水道が初めといわれていますが、昔、読んだ本には、日本でもかなり昔から用いられていたらしく、元国学院大学の樋口清之先生の説によると、飛鳥時代(7世紀)の飛鳥寺の西の噴水に使われていると「続日本書紀」の持統天皇の条にあり、日本人は早くから「サイホンの原理」を知っていたとおっしゃっています。)

 

現在も、一日に1,400トンもの水をこの兼六園や金沢市内に送り続けているのは、江戸初期に造られた延長12kmの用水で、今から390年前の手堀りの水路です。

 

以上

 

資料作成 武野 一雄 氏

主催 NPOエコラボ

 共催 Refillいしかわ・金沢

 

*この事業は、金沢市「令和4年度 協働のまちづくりチャレンジ事業」「マイボトルでGo!アクション」として実施します。マイボトルを持つライフスタイルの提案や市内の給水スポットを紹介し、ペットボトルの削減や持続可能な水循環システムの意識向上を図ることにより、市民が地域水資源の価値を知り、使い捨て容器入り飲料から水道水やお茶への利用転換を促進し、環境負荷の低減を図ります。
https://refillishikawa.hp.peraichi.com/


令和2年度 「いいね金沢環境活動賞」を受賞しました

令和2年度 いいね金沢環境活動賞を受賞しました。

親子農園活動や太陽光を使った調理「ソーラークッキング」によって、地域の子どもの自然体験や食育の場を提供するほか、「蜜ろうラップづくり」などの体験型のプラスチックフリー学習をとおしてごみの発生抑制と自然素材活用を推進している。環境学習に知見のあるメンバーによる、環境学習の体験型プログラムを開発し、地域での普及活動及び人材育成に努めている。

 

ピックアップ

今までの活動は、Facebookのイベントページをご確認ください。 

NPOエコラボの環境食育活動

食の環境負荷を低減し価値を高める体験型環境食育を普及している。食の生産から流通、消費、廃棄までの環境負荷を、生物多様性の保全、エネルギー消費、資源循環、化学物質使用などの環境側面から理解。調理実習では自然環境の恵みを享受した良質の地域食材を利用、伝統食が持つ文化的価値も再評価する。またSCMの考え方を基本に、使用からバックキャスティングで管理するマネジメントで、実効性のある資源の有効利用、食品ロス削減方策を、ゼロカーボン時代に向けた再生可能エネルギーの活用と被災時の安全な食の確保を可能にするソーラークッキングも提案、デジタルツールを用いた情報発信も行っている。
【生産】環境配慮型農業の体験、水田の多面的機能・生物多様性への理解を深める
【流通・購入】フードマイレージ指標と容器包装プラスチックによる環境負荷を理解し、地産地消とエシカル消費による環境負荷低減消費行動を促す
【保存】3SとSCM視点によるキッチンマネージメントで食品ロス発生抑制
【調理】自然エネルギー活用のソーラークッキングと伝統食
【資源循環】食品ロス削減サルベイジクッキング、コンポストによる資源循環